■旗の誕生
原始時代の人々は、生き延びるために敵を倒しました。その時、倒した敵の血を自分の着衣に浸して高々と掲げて勝利と歓喜の叫びをあげ、士気を高めたであろうと想像されます。その敵の血にまみれた着衣は、その集団の団結のシンボルであったことでしょう。
古代ペルシャの5000年前の金属製の旗印も考古学者により発見されています。そんな古いものでも鷲の竿頭は現代のアメリカの竿頭イーグルに通じる所もあるそうです。旗には古代ペルシャのシンボルである獅子と太陽が描かれています。今日では旗と言えば布製が我々の常識ですが、古代では決して布製ばかりではなかったようです。皮であり羊毛、金属等様々な材料が使用されました。また、旗部分よりむしろ竿頭が重要とされていた事もあったそうです。
古代エジプト人には布を織ったり染めたりする技術を持っていたとされますが、文献にも「聖なる神の旗印の下に、軍勢を進め・・・・」というように記されているそうです。
中国4000年の歴史と言われますが、周の武王の時代(紀元前12世紀ごろ)には白い旗を国旗として使用していたという考古学の発見もあるそうです。
これらは布製の国旗の起源といえるかもしれません。
2600年前の中国の孫子の「兵法」に記された言葉 「戦では一切が混乱の状態にある。命令を口で言っても聞こえないこの混乱を秩序たてるのは、事前に取り決めた旗あるいは鐘や鼓の音である」
旗はすべてどの旗も事前に意味の統一がなされていました。
日本の旗の起源は邪馬台国卑弥呼の時代にさかのぼるようです。「魏志倭人伝」に邪馬台国へ送った旗のことが記載されているそうです。
旗のない人間社会は考えられません。旗は自分の意図する感情の表現でもあります。 旗は栄光、勝利、権威、信念、抱負、忠節、敬意(時に侮辱)、威嚇、団結・・・・・といった個人や集団の意思表示でもあるからと思います。
■のぼり旗の歴史・由来
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街中で最も見かける旗はのぼり旗ではないでしょうか。上記写真のように相撲のぼり旗、歌舞伎のぼり旗、神社のぼりそして各商店の店頭には、その店の広告を染め抜いたのぼり旗がはためいています。「そば」「うなぎ」「ラーメン」・・・・・日本独特の雰囲気が感じられます。のぼり旗の形式は日本独特の形式です。
のぼり旗の歴史は戦国時代に遡ります。映画などの歴史物で「のぼり旗」はおなじみです。戦国武将の合戦のためにのぼり旗は考案されたようです。武田信玄の「風林火山」上杉謙信の「毘沙門天」など有名な「のぼり旗」があります。
戦国時代以前は例えば源氏と平氏の時代にはまだ、なかったようです。源義経や頼朝の時代の旗は竿に長い旗の一端を括り付ける方式で、それが応仁の乱ぐらいまで続いたそうです。その時代までは一族対一族の戦いだったので、一族のシンボルである家紋等の旗で良かったわけです。
しかし戦国時代、下克上、群雄割拠の時代になると個人の働き次第で一国一城の主になれる時代となり、自分の武功をアピールする事で、自分の価値、評価を高める事が必要になりました。
「のぼり旗」は戦国時代、論功行賞のために戦場での活躍を大将に認めてもらうために個人として、識別の武装を工夫するようになって登場しました。小型、軽量化して旗指物と呼ばれる物のひとつとして背中や腰につけました。無風状態でも良く識別できて、また竿と「のぼり旗」を背負って走っても風の抵抗を受けないように逆L地状に乳布で竿に固定するというアイデアは現代でいえば特許に値する考案だったと思います。
また、大将の陣には大型長大な「のぼり旗」が立てられ「陣旗」とも呼ばれます。どこから見ても同じに見えるように、数多く、威勢を示すように立てました。これらの大きな「のぼり旗」は祭礼や神社、鯉幟として現在にも伝わっています。
戦国時代も終わり平和な江戸時代以降には、「のぼり旗」の活躍の場も少なくなっていったことと思われます。
なお、余談ですが、戦場では大将は常に「旗」の勢いで戦況の有利不利を判断していました。 「旗色が良い」「旗色が悪い」は戦意の昂揚や動揺を表し、戦況の動きを意味しました。
「旗を巻く」とは敗軍を意味しました。 「旗を挙げる」「旗を立てる」は戦う意思をしめし、転じて現代では事業を起こすような表現に使われます。
現代、ここ20~30年で「のぼり旗」が大復活しています。街には広告用として企業の商品の写真やロゴマークを染めたデザイン豊かな色彩豊かな「のぼり旗」が街を彩っています。
これは確かなデータはありませんが、1970年代以降、安価で縫製の容易なポリエステル製生地の量産染色技術が発達したことと、のぼり旗用の竿が組立式の竹の竿だったものが伸縮型のスチール製の竿が開発されたことなどから、利便性が増し大幅なコストダウンと量産が可能になったことが要因と考えられます。
戦国の武将もまさか、数百年後の未来の平和な日本で、街中に「のぼり旗」がはためいているとは想像しなかったでしょう。
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■暖簾(のれん)の歴史・由来
街の和風のお店の軒先につるされている「暖簾(のれん)」は旗の1種であり看板の役割ではありますが、どことなく大量生産された物とは違う雰囲気があります。1枚ごとに職人により染め上げられる「暖簾」には工芸品的な香りが残っているように感じます。
元々は「暖簾」は文字で示される通り、防寒のために商家や旧家の中玄関の懸けられた垂れ幕を指したそうです。
垂れ幕に商号や家紋等を染め抜いたものが本来の姿です。現代はさすがに防寒用途ではないかもしれません。ただ,その名残か日本料理店など和風のお店では「日除け暖簾」と呼ばれる商号を染め抜いた大きな垂れ幕を店先に見ることもあります。
現代では飲食店の軒先にかけらているのが目に付きます。
その店の風格、伝統、雰囲気に見合ったデザインでお店の顔になっています。やはり金属的な看板とは違った趣があります。
色彩については、藍色、焦げ茶色等の暗色系が多く用いられます。お店の重厚感、風格のシンボルですから、あまり派手な色は好まれません。
また素材も、天然繊維の木綿が好まれます。暖簾に関しては化学繊維はあまりないようです。
化学繊維の持つ光沢感、爽やか感、軽量感が「暖簾」の持つ風格、品格といった日本人の好む感覚にそぐわないのかもしれません。
今日では一般家庭やお店の中では間仕切りや目隠しにも使用さる事も多いようです。
夏用の清涼感を出すために麻生地を使用した粋な「暖簾」もあります。
小料理屋や居酒屋では縄を下げた「縄のれん」や木製の珠を糸で繋ぎ暖簾状にした「珠暖簾」なども見ることがあります。
歴史的には上述のように防寒用であったようですが、商店の軒先に吊るし塵除けや日除けとしたり、屋号などを染め抜きお店の顔、看板の役割で使われることが多くなっていったようです。
元来は中国から伝わったとの説もあります。屋号の染め抜きは江戸時代初期の寛永(1624年)ごろから普及したと伝わっています。江戸時代、明治、大正と多く用いられたが、昭和以降は店舗の洋風化とともに減少したと言われています。
暖簾は商家のシンボルでしたから暖簾の新古はお店の新古に通じ、「暖簾が古い」といえば老舗としての信用を意味しました。
また、「暖簾分け」といえば年季を果たした者に屋号を分け独立させる事を言い、本店から信用や営業権を分けて開店したことを意味しました。
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■法被(はっぴ)と半纏(半天・はんてん)の由来・歴史
今日、半纏はその由来とは違った意味合いで活躍していることも多いようです。
髪を上げて祭半纏を着た女性が神輿を担ぐ姿はキリッとして小粋な感じです。イベント会場やキャンペーンでは、半纏姿で会場を盛り上げています。職人さんが印半纏を着ている姿は日本の伝統と言う感じがして風情があります。そんな半纏の歴史・由来をご紹介します。
江戸時代後期に武家社会を中心に羽織が法被に変化していきました。
法被の需要が伸び量産目的から染色技術も飛躍的に向上しました。法被は半纏より袖が広く、かつ長くできていて商人半纏より格式が高いものでした。半纏は武家の法被の染色技術を使い商人用として発展したようです。半纏は商人や職人用でしたから、作業しやすいように袖は短く幅も絞られていました。
江戸時代には法被と半纏は別物でしたが今日では法被を「ハッピ」と称し印半纏や祭半纏と同じ物を指しているようです。印半纏のデザインにはパターンがあり、その半纏を見ればどこの商店、職人、どこの組の火消しかとか一目でわかるようにというものであったそうです。背中に屋号や家紋などの大紋を染め抜き、腰には文字を図案化した腰字や白線、波型、吉原つなぎ、松葉模様といった伝統的に洗練された腰柄やお店独自の図柄をいれました。衿にはお店名や組の名称を染め抜きました。
「はんてん」という言葉の由来ですが商家の丁稚奉公のために一反の生地で二着作ったことから「はんたんもの(半反物)」という作業着が作られていました。「はんたんもの」はあくまで作業着で古着であり屋号などは染め抜かれていませんでした。
武家社会の法被の染色技術の発展に伴い、その技術を用いて商人用として屋号を染め抜いた「印半纏」が誕生しました。商人や職人たちの所謂「ユニホーム」になってより発展して行きます。お店の「印半纏」を着る事は、現代風に言えば、会社の名刺と社章と社員証であり、信用であり、背中に屋号というロゴマークを背負った広告宣伝でもあったと思われます。お店の屋号入りの印半纏は質入れする事が出来るほどの重要なシンボル的存在だったそうです。
なお、漢字ついては「半天」「半纏」「袢天」「袢纏」など色々説があるようです。どの文字が正しいかは定かではありません。はんたんもの(半反物)から転じて「半天」になった、半分、身に纏うという意味から「半纏」という文字を使うようになったなどという説があります。
現代では、法被のことを「ハッピ」表記することが多く半纏とハッピには明確な区別はなく使っているようです。あえて言えば、カタカナで「ハッピ」といった時は、企業のイベントやキャンペーン用で、半纏というときは祭礼用や昔ながらの印半纏などを指すような傾向があります。
半纏は江戸時代以降、明治、大正、昭和と着用されていましたが、次第に姿を消してしまいました。復活したのは昭和40年代になってからだそうです。昭和45年の大阪万博で大量の半纏がイベント用に用いられたのがきっかけだそうです。実用性ではなくイベント用として再登場したわけです。
最近では、企業の宣伝活動やイベントの演出に「ハッピ」を使用するようです。テレビCMの安売り家電店は「ハッピ」にハチマキ姿でやっています。サザンオールスターズのCDのおまけに「ハッピ」が付いていました。何十万着作ったのでしょうか?また、大阪万博と同じ頃、高度成長期真最中、日本人の暮らしも豊かになり、余裕も出来てきて、各地方の祭礼の人気復活に繋がりました。揃いの祭半纏を着てお神輿を担ぐ姿が大人も子供も盛んになったことも半纏復活になりました。今日でもお祭り等の日本古来の行事の「祭半纏」には根強い人気あります。
一方、職人さんが仕事着として印半纏を着ている姿は正月とかの儀式の時以外はあまり見かけないようで寂しく感じます。
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■幕の歴史
一般的には劇場や会場において使用される大きな布を指します。歴史的に見ると武将が使用した「陣幕」が思い浮かびます。容易に持ち運び組み立てができるので戦場で目隠しや建物の代用にとして使用しました。陣内は神聖な場所とされ、軍議を行う場所でした。
また、その中に大将軍がいることから「幕府」の名がおこった。
劇場で使用される幕は、劇の区切りの意味があり「幕開け」「幕を下ろす」などと言う慣用句も生まれました。また区切るということから「幕の内弁当」の由来となっています。
一般に良く使われる幕
社寺幕 |
奉納幕とも呼ぶ。社寺の建物正面に吊るした大型幕。大きく紋を染め抜いて中心でたくし上げ揚巻房をつける。 |
紅白幕 |
結婚式や祭りなど祝い事で使用される紅白で構成される幕。学校の入学式、卒業式、会社の入社式などにも使われる。 |
青白幕 |
浅黄幕ともいう。浅黄色(あさぎ色。青色。)と白で構成される幕。地鎮祭・上棟式などの神事に使われる。葬儀などにも使われ、紅白幕や白黒二色の黒白幕(鯨幕)より古い歴史を持つとも言われる。 |
黒白幕 |
鯨幕ともいう。通夜や葬式など弔い事で使用され白黒で構成される幕。名前は鯨の体が黒と白の2色であること、あるいは黒い皮を剥いだ際の身が白いことに由来する。白装束にもあるように、日本では古来より弔事には白を用いたが、江戸に入り「弔事=黒」とする西欧の文化が流入するにつれて用いられるようになったとされている。 |
懸垂幕 |
戦国時代からの縦長の大きな「のぼり旗」は陣中に掲げられ「陣旗」などとも呼ばれた。大型で縦長という形式は同じであるが、屋外のビルから垂れ下げる縦長の大型幕のことを指す。 |
横断幕 |
道路を横断して張った事から名づけられた横長の大型幕。 |
■日の丸の歴史
日の丸」は,江戸時代以前にも使用されていたという記録が残っている。
また,江戸時代に入ってから,幕府の船印として使用されるようになったと言われている。幕末になり日米和親条約に調印し(1854年3月)幕府の船印として使用されるようになったと言われている。
幕末になり日米和親条約に調印し(1854年3月)開国,諸外国との交流が始まったことから,外国の船舶と識別するための標識が必要となり,幕府は安政元年(嘉永7年,1854年)の7月に日の丸の幟を日本惣船印に定め,また,日米修好通商条約に調印した翌年の安政6年(1859年)には日の丸の旗を御国惣印と定めた。
万延元年(安政7年,1860年)には,日米修好通商条約の批准書交換のために渡米した使節団の一行が日の丸と星条旗が掲げられたニューヨークのブロードウェイを進む様子が現地の絵入り新聞で紹介されている。
このようなことから,遅くとも江戸時代末期には,日の丸が日本の国旗として内外で認知されていたものと考えられる。その後,明治時代に至り,明治3年(1870年)に商船規則(太政官布告第57号)により,日の丸は日本船舶に掲げるべき国旗として定められた。
寛文13年
(1673年) |
幕府,御城米廻船に船印として「日の丸」の幟を掲揚するように指示 |
安政 元年
(1854年) |
幕府,「日の丸」の幟を日本惣船印に制定 |
安政 6年
(1859年) |
幕府,「日の丸」を御国惣印に制定 |
万延 元年
(1860年) |
渡米した幕府の使節が,アメリカで「日の丸」により迎えられる |
明治 3年
(1870年) |
太政官布告第57号「商船規則」制定 |
明治32年
(1899年) |
船舶法を定め,船舶の国旗掲揚について定める |
昭和20年
(1945年) |
GHQの方針として,国旗掲揚はそのつど許可が必要とされる |
昭和22年
(1947年) |
小学校学習指導要領(1)社会科編(試案)に国旗について学習することを記載 |
昭和23年
(1948年) |
GHQ覚書で,12祝祭日の国旗掲揚を正式に許可する |
昭和24年
(1949年) |
GHQ覚書で,国旗掲揚の制限はなくなる |
昭和25年
(1950年) |
国民の祝日には学校や家庭等で国旗を掲揚することを勧奨(天野文相談話) |
昭和33年
(1958年) |
学習指導要領改訂 |
平成11年
(1999年) |
「国旗及び国歌に関する法律」により日の丸は日本国旗として法制化される |
文部科学省ホームページより転載
■国旗及び国歌に関する法律(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)
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日章旗の制定
(国旗)
第一条 国旗は、日章旗とする。
2 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
(国歌)
第二条 国歌は、君が代とする。
2 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
附 則
(施行期日)
1 この法律は、公布の日から施行する。
(商船規則の廃止)
2商船規則(明治三年太政官布告第五十七号)は、廃止する。
(日章旗の制式の特例)
3 日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわらず、寸法の割合について縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に横の長さの百分の一偏した位置とすることができる。
別記第一
(第一条関係)
日章旗の制式
一 寸法の割合及び日章の位置
縦 横の三分の二
日章
直径 縦の五分の三
中心
旗の中心
二 彩色 地白色 日章紅色
別記第二(国歌関係)省略
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■国旗の色について
国旗の色調について良く問い合わせを受けます。
この国の国旗の青はもっと濃い青であるとか淡い青であるとか。
しかし実際には何が本来の国旗の色であるかを特定するのは不可能に近いことが多いようです。
もちろん一部の国旗のように国際基準の番号で色を規定し条文化している国旗もあります。
しかし大半は「愛国者の流血の赤」とか「海の青」「澄んだ空の青」というような抽象的に表現されています。
私たちの日本の場合でも日本国旗の日の丸を規定した「国歌・国旗法」も「紅色」と記載されているだけで具体的な国際基準の色が指定されているわけではありません。
日本国旗日の丸は「朝日であるから日章の赤は朱赤である」という人もいれば「日章の赤は真紅である」という人もいるようですし、また同じ言葉で表現してもイメージしている色は違うこともあり得ます。
歴史のある国の国旗ほど基準を作ることは困難と思われます。
カナダのように国民の公募で近代に決めた国旗などは基準は容易と思いますが。
日の丸は神代の昔からあるわけですから、何を根拠に誰が決めるかとなると難しいことがわかると思います。
抽象的に「紅色」とするのが最も理解を得られる表現かと思います。
実際問題ですが、国旗の素材(綿布・化学繊維・織り方)・染料・染色方法などの相違により発色は相違してきます。
もちろん国旗メーカーとして極力正しいと思える色で染色する努力するのは当然です。
日の丸をオレンジ色に染めたら明らかに間違いであることは明らかです。
とは言っても
国旗の微妙な色はあまり気にしても意味がない言えるかもです。
余談ですが
お寿司屋さんとかにかかっている暖簾の濃紺(藍染)の色はとても深みのある渋い伝統的な良い色ですよね。
実はこの色を現代のポスターなどを印刷する高性能印刷機やパソコン画面上で表現しようと思っても出来ません。
カラー写真を高精細には表現はできますが、暖簾の深みのある濃紺は再現できないって面白いですね。
人間の感覚はは高性能に出来ているので機械の再現に騙されないようです。
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